ベンチャー

人も、水も、空気も、
あるがままで素晴らしい。

蒜山 鰻専門店 翏

村田翏・村田朋子

THEME「価値」

 どうぞ、と差し出されたガラスコップに入った水。一口いただくと、すっと口の中になじむように入ってきた。「いわゆる美味しい水というよりは、普通なんだけどきれいな味なんですよね、ここの水は」と、朋子。自然体で、それでいて心地よいもの。それは、二人が惹かれた中和という地域の魅力そのままだ。

 東京生まれ、東京育ちのご夫婦が移住してきたのは2020年の4月。夫の翏は中目黒にミシュランガイドで星を貰う鰻専門店を構え、妻の朋子は医師として働いていたが、どこかで理想の暮らしを求めている自分たちがいた。

 「二人とも自然がある場所が好きだったんです。東京で店をやる中で忙しい毎日で移住なんて考える暇もなかったけど、ふと鳥取に移住したパン屋さんの本を読んで、移住って自分が選んだらできるんだなぁって。そう思った時に思い浮かんだのが、中和の風景でした」

 以前から、店で扱う蔵元をめぐるために毎年山陰地方を訪れていた二人。店の調理に自然栽培の野菜を使っていたことから、友人の紹介で真庭市の蒜山耕藝を訪ねたことが中和を知るきっかけだった。「僕は、大学の頃にニューヨークで山の暮らしをしてすごい経験をした場所があって、そこの空気感に似ていた。わ、ここだ!と思いました」。すぐに妻に相談し、即決した。

 すると、まるで導かれているかのような偶然も重なった。まずは住む家を探すことから始めると、たまたま1軒の空き家が見つかった。そこは蛇口を捻ると、28度の温泉水が出る家。中和で温泉水を引いているわずか3軒のうちの1軒だったという。

 「生業として今できることは鰻屋だし、まぁできることをやろうと思っていたので、鰻を泳がせる生け簀があるか、川から水を引けるかがチェックポイントでした。実は、鰻の養殖池って28度くらいに加温しているんですが、まさにその温度の温泉水が出る家だなんて、こんな偶然もあるんだなぁと」

 仕入れた鰻を1週間ほど温泉水で泳がせてから調理すると、味が落ち着き、嫌なところが抜けるのだという。調理の時や日常でも、水の良さには驚かされることばかりだった。「東京の時は温度と時間を計ってすごく苦労して取っていた出汁がいとも簡単に取れてしまう。調理していても楽だし、楽しい」という夫に、「そう、10年近く美味しいと思って飲んでいたお茶も全然違う。こっちを毎日飲んでいる方が幸せじゃない?と思いましたね」と妻。

 この地域の風景を気に入り、水の良さにも驚き、住んでみたら今度は人の良さに触れた。「人もちょうどいい距離感で、押し付けるわけでもなく、でも優しい。昔から水が豊かな地域で、戦わずしてこられた文化なのか、移住者も地元の人もみんな自分らしく生きている。ストレスがなく、この場所が自分らしさにつながっている気がします」。東京の暮らしは、店が忙しく、午前2〜3時に仮眠して早朝に市場に行く毎日。「もはや前世のよう」と、二人は笑った。

 店は、ランチ営業と通販が主。東京時代は日本酒も売りだったのでお酒に合う料理にしていたが、新しいお客さんの舌に合うものを探りながらの2年だったという。「山菜とか東京だと珍しいものだけどここらじゃ当たり前に採るもの。新鮮な魚、天ぷらとかもあまり驚かれなかったので、メニューは工夫しましたね」。岡山県や鳥取県、関西圏から味の評判を聞きつけたお客さんがわざわざ足を運ぶ店になった。

 「すごいなと思ったことがあったんです」。小学校の感謝祭に参加した時の話を教えてくれた。終わりに、子どもたちが感想を述べることがあったという。皆がこぞって手を上げ、それぞれに自分の言葉で答える。その姿に感動すら覚えたという。

 「恥ずかしいとかもなく自分の考えを言え、人の考えを尊重できる。その雰囲気が漂っていました。多様性という言葉の前に、そこに在ること自体を肯定しているというか。親もそんな感じだから子供もそうなるのか。でも、それも資源だと思うんですよね。そんな場所でお店ができ、暮らしていけるのも嬉しいんですよね」

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